コント「UFO」(イ反)
コントをYouTubeにUPしました。 . .
「千駄ヶ谷ぎょえんトンネル」を歩いた。君は歩いたことがあるだろうか、「千駄ヶ谷ぎょえんトンネル」の歩道を。
新宿御苑の森を横に見ながら、少し潜り、千駄ヶ谷5丁目に出たのである、そのまま都道305号を歩いていると、ピンクの薔薇がたくさん咲いていた。
もう原宿駅のほうまで来たと思ったら、まだ代々木駅だった。で、さっきの新宿3丁目にまた歩いて戻った。
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明治32年、1月、落語家を志望し、六代目朝寝坊むらくに入門。芸名三遊亭夢之助。半年ほどで永井家に辞めさせられる。その後、雑誌記者、銀行員などを経て、作家として大成す。大正11年、麻布市兵衛町1丁目6番地(現・六本木1-6)の屋敷を買い、偏奇館と名付ける。大正15年、銀座のカフェー・タイガーに通い出す。昭和2年、麹町の芸者、寿々龍を壱千円で身請けす。本名、関根歌。麻布飯倉八幡町に囲い、その家を壺中庵と名付ける。昭和3年、歌に麻布富士見町に幾代という待合の店を持たせる。昭和6年、歌と手切れ。昭和11年、向島の私娼窟、玉の井に通い出す。昭和20年、東京大空襲により偏奇館焼失。明石や岡山に疎開。8月15日、終戦。昭和32年、千葉県市川市八幡町4丁目1224番地(現・八幡3-?)に終の住処を持つ。昭和34年、3月1日、浅草のレストラン、アリゾナにて昼食。最後の浅草。以降は東京には行かず、外食も近所の大黒屋という店で済ませる。4月29日、最後の日記を書く。4月30日、永眠。最後の食事は、かつ丼であった。
兄との確執から財産相続の計画のために従兄弟の息子を養子にしている以外は親類縁者とは断絶していた。部屋に残されたボストンバッグには貯金通帳があり、23344974円が記帳されていた。当時、豆腐一丁が10円、喫茶店の珈琲が50円、洋食屋のハンバーグは80円だった。
偏奇館の跡地には、高層ビルの泉ガーデンタワーが建つ。アリゾナキッチンは数年前に閉店したが、その後、浅草の西参道で復活。妾の中では関根歌のみ、手切れをしたにも関わらず、戦後になっても交流が続いた。
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麻布十番駅前に、セーラームーンとタキシード仮面の出会いのマンホールがありました。なぜマンホールだろうか。フェミニンでガーリーなアイコンが下水道のフタになっているのは偶然、過激で先鋭的なアートを成立させ、エロティックでもある。ミーナトゥンキーのエンジェルビジュアルバードだ。
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私はこの街で生まれたのだった。
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ずっと守ってくれている、路傍の観音さまです。お友達です。ここに来ると、あったかいです。最近は、神仏の像は写真に撮らないと決めています。
馬のあたまをのせている馬頭観音は、さまざまな観音さまの中でも厳しい顔をしていることが通例のようですが、この観音さまはお地蔵さまのように小さな姿で、可愛く微笑んでいます。
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江戸時代の明和8年(1771年)に石で掘られた観音さまです。この年は、江戸幕府は10代将軍徳川家治、京の都は後桃園天皇で、江戸落語も烏亭焉馬が盛り上げて、團十郎は五代目襲名、新吉原じゃあ姐さん色を売り逞しく。江戸の頃はこのあたりは完全なる農村であり野菜の一大生産地だったそうです。この翌年からは安永年間ですから、まさに美濃国に栄えし七瀬家の酒蔵の営業開始前夜であります。
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ボディの周りの石に文字が刻まれていて、仲右門さんという人が八月十八日に掘ったというサインもあります。「意願成就所」と、はっきりと掘られています。真夏の末広がりゾロ目の日、観音さまは生まれました。
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