荷風先生

荷風先生

明治32年、1月、落語家を志望し、六代目朝寝坊むらくに入門。芸名三遊亭夢之助。半年ほどで永井家に辞めさせられる。その後、雑誌記者、銀行員などを経て、作家として大成す。大正11年、麻布市兵衛町1丁目6番地(現・六本木1-6)の屋敷を買い、偏奇館と名付ける。大正15年、銀座のカフェー・タイガーに通い出す。昭和2年、麹町の芸者、寿々龍を壱千円で身請けす。本名、関根歌。麻布飯倉八幡町に囲い、その家を壺中庵と名付ける。昭和3年、歌に麻布富士見町に幾代という待合の店を持たせる。昭和6年、歌と手切れ。昭和11年、向島の私娼窟、玉の井に通い出す。昭和20年、東京大空襲により偏奇館焼失。明石や岡山に疎開。8月15日、終戦。昭和32年、千葉県市川市八幡町4丁目1224番地(現・八幡3-?)に終の住処を持つ。昭和34年、3月1日、浅草のレストラン、アリゾナにて昼食。最後の浅草。以降は東京には行かず、外食も近所の大黒屋という店で済ませる。4月29日、最後の日記を書く。4月30日、永眠。最後の食事は、かつ丼であった。

兄との確執から財産相続の計画のために従兄弟の息子を養子にしている以外は親類縁者とは断絶していた。部屋に残されたボストンバッグには貯金通帳があり、23344974円が記帳されていた。当時、豆腐一丁が10円、喫茶店の珈琲が50円、洋食屋のハンバーグは80円だった。

偏奇館の跡地には、高層ビルの泉ガーデンタワーが建つ。アリゾナキッチンは数年前に閉店したが、その後、浅草の西参道で復活。妾の中では関根歌のみ、手切れをしたにも関わらず、戦後になっても交流が続いた。

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