颱風の墨亭、桂文治の会

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颱風の日、墨亭という小さな寄席に行った。墨田区は向島にある。演芸評論家の瀧口雅仁さんが席亭で、小さな化粧品店だった町屋を改装して、二階の畳の部屋で落語や講談の会を開いている。お客さんは15名ほどでいっぱい。

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さまざまなハンデのために、最初に芸能に足を踏み入れてから、ほとんど活動できず、長い間さまよってきた僕の、新しい始まりのきっかけにしたかった。カラダは相変わらずすこぶる痛いけど、ふらふらしながら、何とか開演時刻に間に合った。

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末廣亭でもYouTubeでも見た十一代桂文治の会だ。

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先代の十代桂文治は、西武新宿線のラッキーおじいさんとして女子高生の子たちに親しまれた。いつも着物を着ているのが珍しかったからだ。その先代にならって、当代も普段から和装の着物で生活している。
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文治は「鰻の幇間」と「水屋の富」。前座の若い人は「たらちね」「権助魚」。

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ちょうど、桜川ぴん助(初代)の昔の本「ぴん助浮世草子」を読んでいて、彼は様々な芸人の世話をした漫才師だけど、もともとは幇間だ。この本の中で、ぴん助は、大抵の噺家は落語で幇間を演じる際、立派な幇間になってしまっていると批判する。江戸の町をふらふらしているしょうもない野幇間(のだいこ)なのに、口調や仕草が、お座敷の幇間になっいると。

けれど、文治の幇間は、野幇間だった。自民党の総理大臣を相手にしたら、ただ怒らせてしまうような。

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「水屋の富」は、富くじが当たった水屋が、床下に隠した千両が誰かに取られないかと不安になりノイローゼになり、悪夢を見る毎日を繰り返す。江戸時代、大金が入ったからといって、知恵がなければ、そんな簡単に自分の立場を変えることは難しかっただろう。最後、ほんとうに大金を盗まれて、悪夢を見なくてよくなりホッとする。富くじが当たったことが夢だったというオチではないのが秀逸な噺だ。お金はなくなってしまったけど、落語は小市民的な心理を良しとする。

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高田渡という師が人の姿から解放され17年が経つ。苦境の中で、高田を屋号として名乗ることにした。渡さんの力をもらう。

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歌手やミュージシャンとして知られ、古今亭志ん生のようだと語られた高田渡。その父上は、高田豊さんという人だ。彼は最初は詩人で、佐藤春夫の弟子だった。佐藤春夫は永井荷風の弟子だ。永井荷風は六代目朝寝坊むらくの弟子で、しかし名家の子ゆえ、落語家は見習い期間のみで辞めさせられてしまった。それで荷風は小説家になった。むらくは四代目三遊亭圓生の弟子で、四代目圓生はあの三遊亭圓朝の弟子だ。圓朝は二代目三遊亭圓生の、二代目圓生は初代三遊亭圓生の弟子である。そして初代圓生は初代三笑亭可楽ならびに烏亭焉馬の弟子である。

だから僕は落語界に入門していないけど、その歴史の中にいる。高田渡は落語家みたいだと言われていた。

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烏亭焉馬が向島の料亭で「咄の会」を開いたのが、鹿野武左衛門が流罪になって以降しっかりとは育っていなかった江戸落語の中興となる。

まさに、墨亭の近くだ。

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桂文治という名前は、江戸落語の流れとはまた別に、そもそもは上方落語の始まりの名前だ。それにいまの文治師と先代は、八代九代と違い、上方からの流れを汲む。

だから私は、十一代目の桂文治を見ているのではなく、220年にわたる歴史上すべての桂文治を見たのだ。名前というのは魔術的な力を持つ。

落語の歴史そのものが、私を応援し、支えてくれるのだ。

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カラダが痛いし、簡単に治るものでもないけど、舞台に出たい。

絶望を知った者にしかできない芸が、あるだろう。

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まあ、渡さんのように、しんどくても、飄々と…。

U・x・U

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