落語「お七元ツイ」

※BGMはチャールズ・ミンガスの「Better Git In Your Soul」あたりでね。

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八つぁん「御隠居、御隠居ーッ」

御隠居「はいはい、いま開けますよ。ガラガラガラ。おや、八つぁんかい。こんな時分に何の用だい。まあまあ、お上がり」

八つぁん「それが御隠居のね、噂を聞いちまったんですよ」

御隠居「はて、あたしの噂とは何だろうね。この江戸町内、八百八町を吹き渡る風の中に混ざりゆく現実と非現実のあいだに燦然と煌めく悠久の時の流れの中で反射する光の中で純文学かフランス映画かといった具合に切なく儚げに輝く、あたしの噂とはいったい何なんだい。思い当たるのは、一週間くらい前に、武家屋敷に『ええじゃないか』を仕掛けたくらいだがな」

八つぁん「何だい、御隠居は極左だね、どうも。いや何、そんなくだらねえことじゃないんですよぉ。あっしはねぇ、御隠居が御隠居するって噂を聞いちまったんだ」

御隠居「何だい、それは」

八つぁん「御隠居が御隠居したら、御隠居の御隠居になっちまう。そんなのは、宇宙が外側にめくれてひっくり返っちまうようなもんだぁ。そしたら宇宙がまたビッグバンでね、また素粒子から始めなくっちゃいけねえや」

御隠居「大袈裟だね、八つぁんは。まあ、あたしは御隠居したから御隠居なんだ。御隠居を御隠居するわけがないだろう」

八つぁん「そもそも何の御隠居なんだか、わかったもんじゃねえや」

御隠居「それは秘密です」

八つぁん「やい、御隠居。日本赤軍か、アーレフか、薔薇十字団か、はっきりしろい」

御隠居「これこれ、そんなことを大きな声で言うのはおやめなさい」

八つぁん「だいたい御隠居というのはね、何かの職業をして御隠居したから御隠居なんだ。養老孟司は解剖学者の御隠居、池上彰はNHKの御隠居、池田大作は創価学会の御隠居。それから弘法大師様、これは坊さんの御隠居だぁ。酒蔵だの元手がかかる商人は、武士の御隠居だ。何、御隠居たってねぇ、水戸の黄門様だけじゃねえんだ、どこもかしこも御隠居だらけだ」

御隠居「八つぁんは、どこでそういう芸を覚えてきたのかねぇ」

八つぁん「御隠居は最初っから御隠居だったりして」

御隠居「おまえさんは、のべつそういうことを言う。ところでおまえさんは、神楽坂の団子屋の奉公人だったのに、どうして神楽坂の団子屋の奉公人でなくなったんだい。神楽坂の団子屋の奉公人でなくなったわけを聞かせてみなさい」

八つぁん「へえ、御隠居、それがですね。神楽坂の団子屋の娘のお七ちゃんにね」

御隠居「お七ちゃんといえば、狐憑きのお七ちゃん。男の着物を着て、かんざしをつけて、陰間茶屋をよだれ垂らして覗いてる変わり者の美少女、お七ちゃん」

八つぁん「ええ、そのお七ちゃんにね、おっぱいが大きいのに谷間がないってのをからかったら、お店(たな)を追い出されちまったんです」

御隠居「八つぁん、おまえさんは、だからバカだと言うんだ。そんなことを年頃の娘さんに言ってはいけないよ」

八つぁん「あっしはねえ、きっと知恵の実を食べてないんだ。善悪がさっぱりわからねえ。エデンの園ってどこにあるんですかい」

御隠居「おまえさんは物を知らないのか知っているのか、よくわからないね。それでおまえさんは、そのあと鰻屋を始めたのではなかったかな」

八つぁん「ええ、それがまた、御隠居。いくら河岸で鰻を仕入れてきてもね、鰻が『私はどじょうです』って言うもんですからね、鰻屋は潰れちまいました」

御隠居「鰻が喋るのかい」

八つぁん「ええ」

御隠居「それなら、どじょう屋をやればよかっただろう」

八つぁん「へっててしぇーげーなもんで。こだわりが強いんです」

御隠居「なんだい、それは」

八つぁん「いやね、南蛮の医者があっしのことを発達障害だとか言うんでね、あっしは江戸っ子だから、ぜんぶ、え段で言うんです。べらぼうめ、がってんでい。こちとらシティボーイでい」

御隠居「おまえさんは、ほんとうにバカだね」

八つぁん「ええ、脳に余白があるんです」

御隠居「おまえさんは、のべつそういうことを言う」

八つぁん「ラッキーセブンのお七ちゃんより、末広がりの八五郎のほうが、おめでたいんだから」

御隠居「末広がりの八は、よかったな。しかし、お七ちゃんに、おっぱいが大きいのに谷間がないのをからかったのはよくないがな、お七ちゃんも何も、お店を追い出さなくてもよいだろうに。きっと、お七ちゃんは八つぁんのことが好きなんだろう」

八つぁん「あっしもね、お七ちゃんをね、身分違いなら心中しちまおうというくらいにね、想いを寄せていたんですがね」

御隠居「おやおや、そうだったのかい。いや、二人がそんな仲とは知らなかったね」

八つぁん「でもね、御隠居。お七ちゃんときたらね、お店を追い出しただけじゃなくて、あっしを、お白洲様に突き出したんですよぉ。狐憑きは簡単には治らねえんだぁ」

御隠居「それはずいぶん穏やかじゃないね。おっぱいが大きいのに谷間がないのをからかう罪で、お白洲様に行ったのかい」

八つぁん「ええ、それで写真と指紋と遺伝子を取られちまったんです。それでもね、御隠居。あっしは…お七ちゃんの狐憑きが治らなくたって、たとえ所帯を持てなくたって、あっしは、お七ちゃんのことを…恨んじゃ…いねえんです…」

御隠居「そうかい、それは大変だったね、八つぁん。いやあ、八つぁんは大したもんだ。しかし、いくらお七ちゃんを大切に思っていてもだよ、どうしておまえさんは、遺伝子まで取られたというのに、お七ちゃんを赦しているんだい」

八つぁん「ええ、素粒子までは取られておりません」

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※題名の「お七元ツイ(おしちもとつい)」は「文七元結(ぶんしちもっとい)」のもじり。

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