系図(初代可楽〜圓朝〜荷風〜高田渡〜渚あいみ)
高田渡は「落語家のようだ」と言われていた。歌やギターだけでなく小咄を喋り、古今亭志ん生のように居眠りをしたり、たまにしかマスメディアに登場しなかったり、吉祥寺の居酒屋にいるその生活感や雰囲気からだろう。
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しかし、そこには、「歌手やミュージシャンなのに落語家みたい」という、物事をギャップで見る意識が強く感じられた。実際、志ん生の居眠りと高田渡の居眠りは内容が違うのだから(渡はじつは意図的にステージで眠っていた)。
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そして一人で芸をすることが、本来は落語だったのだし、現代の落語界の政治構造に属していない人も、プリミティブな意味において落語家のはずである。
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そんなことを考える中、私はひとつの歴史的事実を発見した。
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まず、僕は高田渡に最後に会いに行った若い子として、自称最後の弟子を名乗る。
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高田渡の父で人生の師だった高田豊さんという人は、若い頃に詩人で、佐藤春夫の弟子だった。やがて破門となり、数奇な運命を生きた。
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井伏鱒二や太宰治、山之口貘らを世話した佐藤春夫は、永井荷風の弟子である。
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永井荷風は小説家になる前に、落語家だった。六代目朝寝坊むらくに入門し、朝寝坊夢之助を名乗った。
しかし名家の子ゆえ、辞めさせられてしまい、半年間の前座修行で終わってしまった。
その後の荷風の生き方、日記を書き連ねるスタイル、落語家たちや浅草ロック座の踊り子との交流を見れば、彼がまぎれもなく芸人であることを現している。
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だから、その流れを汲む高田渡は、まぎれもなく落語家である。比喩などではなく、落語家なのだ。
そして、はっきり言って、この僕も、落語家である。
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落語は上方発祥の演芸だが、のちに江戸でも洒脱な文化人たちの嗜みとなった。しかし、みな、ほかの本職を持ちながら、落語を作ったり演じたりしていた。
その代表格が烏亭焉馬であり、彼は大工でありながらユニークな文化人だった。
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そんな中、西暦1777年のラッキーセブンの年に生まれたひとりの櫛職人が、櫛をつくる道具を捨て、落語に専念した。江戸で初めての職業落語家である。
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京屋又五郎、それが彼の本名で、芸名を三笑亭可楽とした。山椒は小粒だがピリリと辛いという諺の洒落である。
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現在、東京のほぼすべての落語家が、初代可楽を源流とする。立川談志も三遊亭圓楽もヨネスケも、落語協会も落語芸術協会も海老名家もみな可楽がルーツである。
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三笑亭可楽の名跡は九代目まで受け継がれており、門下の可龍と可風が寄席で活躍している。
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六代目朝寝坊むらくは、寄席界のファムファタール、初代立花家橘之助の夫でもあった。
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朝寝坊むらくの名跡も九代目まで続き、十代目にして、八代目可楽の弟子が、朝寝坊むらくの屋号と書き方を変え、三笑亭夢楽としたため、代数には数えない。三笑亭夢楽が落語家になったきっかけは永井荷風と知り合いだったからだ。
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さらに、夢楽は弟子に夢之助と名付けた。この三笑亭夢之助はいくらか前までテレビでも活躍していた人だが、まさに永井荷風の朝寝坊夢之助の二代目だったのである。ただし、落語の世界では、歴史の中で大きくならなかった名前はあまり襲名という言葉は使わない。
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なお、初代の朝寝坊むらくは、初代可楽の弟子で、夢楽と名付けられたのに夢羅久と無断で漢字を変えたために破門になった。
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かくして、朝寝坊という屋号は現在は受け継がれていない。朝寝坊むらくからの変形で、朝寝坊のらくという名前もあるが、出世名であったり廃業したりと大きな名跡としてはなっていない。
朝寝坊志らくも歴史上に5人いたらしいが、当代は、屋号を師匠に合わせた名前である立川志らくである。志らくには弟子や孫弟子と多くいるが、もし立川志らくが五代目朝寝坊志らくと名乗っていたら、現在、朝寝坊がたくさんいたということになる。
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高田渡の弟子は大勢いるが、高田渡のように漫談を本気でやる人は、長きに渡り、なぎら健壱ひとりだけだった。
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これからの展開や、いかに!
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落語のエッセンスを受け継ぎ、現代に表現するのは、初代可楽の弟子の弟子の弟子の弟子の弟子の弟子の弟子の弟子の子の最後の弟子かもしれない。六代目むらくの来孫弟子であり、圓朝の仍孫弟子である、僕かもしれない…!
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※noteにも、れいゆ大學②⑤としてUPしました。
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