高田渡はいま何を考えているのか?

写真は、「季刊ユジク」という雑誌の創刊号、高田渡のインタビュー。「高田渡けんきゅう会」を旗揚げし、いろんな雑誌や資料をあつめている。

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「何にせよ歌っていればいい」「いろんな考えの人がいていい」と言う高田渡だが、やっぱりじぶんの考えや主張を言わずにはいられない。「季刊ぐるり」および「高田渡読本」という本で、豊田勇造さんが「彼はもっと自分のことを知ってほしかったんじゃないか」というようなことを語っている。「レコード・コレクターズ」という雑誌では、鈴木慶一さんがやはり「彼は自分のことをいろいろ知ってほしいと思っていた」というように語っていた。しかし、高田渡の周囲の取り巻きたちは、高田渡から最も遠いような人々だった。

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高田渡。昭和24年元日、ほんとうは前日の大晦日、岐阜の北方町の名家に生まれた。四人兄弟の末っ子で、裕福だった高田家は幼少期に没落。貧しいのに大きな屋敷という不思議な暮らし。吃音で、カラダが弱く、おつむぼんやり、美少年。8歳で母親を喪くし、父親の狂気とも言える行動がはじまる。四人の息子を連れて、カネもコネもなく東京へ。父である高田豊は、佐藤春夫門下を破門になった元詩人で、元出版社社員で、元共産党員で、元北方町町議員。すべてが現役ではなく、どこにも帰属できない世間的にはダメ男。インテリだった彼は、初めて労働者となり、生活保護から抜けるために頑張るが、高田渡18歳のときに死す。そして高田渡は、フォークムーブメントの折、痛烈なコミックソングにしてトピカルソング「自衛隊に入ろう」「大・ダイジェスト盤 三億円強奪事件の唄」を発表し、明治の演歌師・添田唖蝉坊の遺した歌をリビルドし、現代詩とアメリカのブルーズを融合させ、絶妙な漫談を語った。彼は小柄で病弱なカラダと堂々とした大きな器で、高石ともや、岡林信康、遠藤賢司、加藤和彦と並ぶ親分格のひとりになっていく。2005年、巡業先で永眠。56歳だった。彼の見果てぬ理想にほんとうの意味で敬意を示した者は、生涯でわずかしかいなかっただろう。決して、飄々として自然体でというようなパブリックな高田渡像だけでは、高田渡が言いたかったことには届かない。

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「わかってほしい」と「わからなくていい」のはざまで、いつの時代も偉大な芸術家は寂しい思いをする。

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高田渡はいま何を考えているのか?

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どんな運命でも、どんな境遇でも、懸命に生きる。それが高田渡の教えだ。私は生きている。私の人生が詠み人知らずの歌だ。私は、いろんなことをする。

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渡さんは、世界のほとんどに霧がかかってる私にとって、確かなこと。

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でも、ほんとうは、なんにもわかんない。
れいは、ばかだから。

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